世の中にはモッシュで死ぬ人がいる。

渋谷の東急ハンズ前、HMVのビルの3階に、私のお気に入りの古着屋がある。お気に入りといってもわたしは引きこもりだから年に数回行くか行かないかくらいなんだけど、なぜだか店主は不思議と私の顔を覚えていてくれる。昔接客のバイトをしていたわりに記憶力の悪い私からするとそれだけで尊敬に値するのに、前回私が訪れた時に買った品物や話の内容まで細かく記憶しているようだ。話し方や素ぶりなんか見ていると、多分もともとは内向的な方なんじゃないかなと思わなくもないが、人当たりがよく親切で洋服の知識も豊富な人だ。ここの店に常連らしい客が多いのも、きっとこの人の人柄によるところも大きいのだろう。たった数十分店にいるだけでも、次から次へ客が舞い込んで来る。いくら東京を代表する街渋谷といっても、こんな分かりづらい場所に店を構えていてよく人が入るな、と感心せざるをえない。

7月中旬、久しぶりに店を訪れたところ、そろそろ本格的に暑くなってきたこともあってか、Tシャツの品揃えが充実していた。ロック厨の自分にとっては、やはりバンドTシャツが気になるところだ。積み重ねられているTシャツを広げては畳み、広げては畳みしていたところ、十代の頃からずっと好きだったバンドのTシャツを見つけた。90年代を代表するロックバンド、レイジアゲインストザマシーンだ。多分メンズサイズだと思うが心なし小さめ。赤地に白い文字で、rage against the machine とプリントが施されている。正直そのTシャツ自体にはそこまで惹かれたわけではなかったものの、レイジは昔から好きなので手に取って鏡で合わせていた。

「女性でレイジが好きな人って珍しいっすね」

ってオーナーが言う。多分あのジャンル自体むさ苦しすぎて、女の子には好かれんのだ。確かに周りにはいなかった。だけど解散する前に一度ライブに行ってみたかったっすね。海外のライブ映像なんか見ているとすごいけれど。

そんなことを話したら、世の中にはモッシュで死ぬ人がいる、と店主が教えてくれた。

「それも不慮の事故で死ぬわけじゃないんですよ。ライブが一番盛り上がるときに、観客と観客が正面衝突をする。それで前線の人間が死んじゃうんです。そんなので人生終わりなんて、もったいないですね。意味が分からないです」

そうですね、たしかに意味が分からない、そう言って私も笑ったけれど、そんなふうにして死んじゃっても私は別にいいと思う。この前はてなのニュースでも、杉本太蔵が自殺した中学生を批判したっていう記事がアップされていたけれど、生きることってそんなにだいじなのかな?

小学生のころ、道徳の授業で、校長先生の話で、命が一番大事だよ、だから大切にしなさいってそれはもう何度も何度も繰り返し聞かされたわけだけど、私は必ずしもそうだとは思わない。確かに死んだら家族や友人は悲しむよ。それにもしかしたら周りの人たちを永久に不幸にしちゃうかもしれないね。ゲンダイってさ、ほとんどの人が途中でリタイアせずに、人生を全うできるわけでしょう。だからそれが当たり前になっちゃって、たった一人死んだだけで、社会の秩序が壊れちゃうんだ。

だけど、そんなことどうでもよくなっちゃう瞬間だってきっとあるでしょう。長寿を全うしたって必ずしも幸せとはかぎんないよ。人生の長さ短さなんて、それぞれの人間が勝手に決めればいいんじゃないかって思う。

そうとは言いつつ、わたし自身は命がだいじだ。他の人の人生に口出ししようとは思わないけれども、やっぱりわたしは、死ってこわいんだな。普段死にたい死にたい死にたいな〜〜って言ってるくせにさ、例えば突然死刑を言い渡されたり、突然銃を持った狂人が家に乗り込んで来たりしたら、死にたくない、殺さないで欲しいって泣き叫んじゃうかも。

トルーマン・カポーティの『冷血』で、いざ自分が死刑になるってとき口元に笑みを浮かべていた殺人鬼がいたけど、そんなのは例外で、死っていうのは怖いもんだよ。だから21世紀っていう近未来的な響きを持つゲンダイにおいても、いまだに死刑が極刑とされているのだろう。死っていうのは、生きとしい生けるものにとって最大の未知だ。そんなの、怖いに決まってる。

わたしは、わたしの命が大切だし、私の周りにいる人たちの命だって大切。死にたくないし、死んでもらいたくない。






だからね、ちょっとギャクセツテキかもしれないけど、それが失われるシュンカンにも、わたしはとても興味がある。

人間っていうのは、この地球の王者のごとく振舞っているけれど、その身体ってのは実際ひどく脆いもんだよ。左腕にちょっとナイフ当ててみただけで腕って簡単に切れちゃうし、車にぶつかっただけで死んでしまう。両目に指を突き立てられたら、それからの人生ずっと目が見えなくなっちゃうわけだし、地上からおよそ10メートルの屋根の上から飛び降りてみただけで命を落としてしまうわけでしょう。それなのに、人間っていうのは、なぜか死についてはあまり考えないで、さぞ当たり前のように、友達作ったり、結婚したり、子供産んだりが人生プランのなかに入ってるんだね。そんなことしてたら、突然人が死んじゃったときとてもとても悲しいのにね。

昔、お母さんの運転する自転車の後ろのカゴに乗せられたことがある。そのときわたしはカゴの中で、もしお母さんが転んだら、わたしはカゴから投げ出されて、全身傷だらけになっちゃうんだろうなって少し怯えていた。蚊の鳴くような小さな声で、「転ばない?」って聞いたら、お母さん、大きな声で「絶対に!」って返事をしてくれたから、わたしの不安も少し和らいで視界が開けたんだね。通りすがり、ゆうちゃんちのおばあちゃんに、「あら、いいわね」って声をかけられて、わたしはなんだか誇らしい気持ちだった。まだ水を張ったばかりの田んぼの水面がキラキラと光って、そのときの五月の青空は今見てる青空よりもずっとずっと近くてあたたかい気がしてた。お母さんもわたしも田んぼも青空も、みんな一つに溶け合ってこれが幸福かって感じがしたよ。多分後付け的な記憶も混ざってるんだけど、わたしあのときとても幸せだった。

でもね、そんな日はもう永久に訪れないの。あれからもう20年近く時間が経っちゃったし、わたしもお母さんも年を取った。たとえ今同じことを繰り返してみても、五十代後半のお母さんが二十代後半のわたしを後ろのカゴに乗せてたらお笑いだよ。いいオトナがカゴの中に縮こまってさ。そもそもわたしカゴの中入れんのかねって感じだ。

だからこそね、そんななんでもない日常の断片がキラキラと光るダイヤモンドやオパールやエメラルドみたいになって、ときどきあんなことあったなって思い出しながら生きてんの。死ぬ間際、それまでの記憶が走馬灯のように駆け巡るってよく言うけれど、多分頭のなかで走馬灯が流れるのは死にゆく人だけじゃない。人が死に向かって旅立つとき、その周りの人たちも、その人にまつわる記憶をきっとたくさん思い出す。多分さ、死のシュンカン、宝石みたいにキラキラ光ってた記憶が一斉にばらまかれるんだ。

J.D.サリンジャーは戦争の周縁を丁寧に描いていくことで、戦争の悲惨を物語ったっていうけど、きっとそんなふうにして、一つの命の周縁が命の煌めきを物語ってくれるんじゃないかな。

ほら、今だってそう。どっか遠い国で亡くなった若い人の話を聞いたってだけなのに、暗闇の中で蝶々の鱗粉がきらきらと光ってる感じがするんだ。あるいは、スノードームの雪がひらひら舞っているようなさ。